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2015年5月22日金曜日

ジタバタしようぜ!

ジタバタしようぜ!
一度しかない人生なんだから,悪あがかないでどうする?

少々見苦しくったって,100年あとに誰が憶えてる?
みんな骨仲間.

憶えられてるとしたら歴史に残る悪あがきということで,誇る.
草葉の陰から.

そのせいで,もしも誰かがちょっと幸せになったんだとしたら,威張る.
そうじゃなくても,肉体の構成物質はいつの間にかCO2なんかになって,どこかの葉っぱに取り込まれたりしてるもんだ.
ちょっと威張っていい.

ジタバタしようぜ!!

2013年1月20日日曜日

順序は大切 - とくに受験生へ

なにごとにおいても,順序は大切だ.
パンツを下げてから用をたすか,用をたしてからパンツを下げるかの例を挙げるまでもなく.



2012年3月2日金曜日

遺体

遺体:ヒトとモノの間

ヒトではない、でもモノではない。
それが赤の他人であっても、遺体を前にしたときに感じるなんとも言い表せない気持ちは、おそらくこの辺りから来ている。



2011年10月9日日曜日

今日もまた いただきますと

今日もまた いただきますと手を合わせ
誰かの死骸 口へと運ぶ

2011年3月13日日曜日

戦いや争いをやめよう

誰が悪いことをしたわけでもない.
それでも,あっけなく人は死に,あっけなく物は失われる.

2011年3月11日に起きた東北関東大震災の影響で,地球の自転1回転が1000万分の16秒(1.6µs)だけ速くなったという.
あれだけの人が死に,物が失われた地震・津波も,地球にとってはしょせんその程度の影響.

人間の営みなど,地球という比較的小さな惑星レベルで見てもたかが知れている.
たかが知れているからこそ,戦いや争いなどをして誰かの欲望のためにムダなエネルギーを費やしている余裕はない.
わざわざ人間自身が災いを作り出すほど愚かなことはない.
震災で犠牲になった方を冒涜するにもほどがある.

そんなヒマとカネがあるなら,被災地に来てほしい.

2010年4月30日金曜日

前世紀前半のファンタジー

またDVDで映画を観た.
懲りずに↓

Amazon.co.jp: 雷撃隊出動 [DVD]
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000FFK0CI/mdmk-22/

半分話: 不思議な映画で紹介した『加藤隼戦闘隊』と同じ時期に,同じ監督が,似たようなキャストで,似たような文脈の中で作られたはずなのに,全く違う作品になっている.
陸軍省と海軍省の介入の差なのだろうか.

資料的価値の大きさではこちらも負けてはいない.
というより航空母艦からの発艦シーンをはじめ,大小とりどりの本物の海軍機が飛び交うさまは,もう二度と再現することのできない貴重な映像.

ただし,ストーリーは海軍省の描くファンタジー.
それ以上でも,それ以下でもない.

そして,そのファンタジーは当たり前のように現実世界で実行に移された.
移されたが,現実が映画と並行していたのは,飛行機が飛び立つまで.
大戦末期の艦攻・陸攻の多くは,映画のように敵艦と相まみえることなど到底かなわず,はるか前方で敵機に撃ち落とされていった.
現実世界の若者たちとともに撃ち落とされていった.
いったい誰のために?
何のために?
それがファンタジーだとはわかっていたはずなのに.

全編通して観るのが精いっぱいだった.
観終わったあとも,しばらく重苦しい気分が襲う.



おそらく山本嘉次郎監督は「あんな映画」にする気は露ほどもなかったのだと考えたい.
そこかしこのカットで密かに,しかし決死の覚悟で力強くその思いを訴えているように感じる.

【関連エントリ】
半分話: 宗教の普遍性
半分話: 日本国憲法と大日本帝国憲法の関係

2010年4月25日日曜日

不思議な映画

久しぶりにDVDで映画を観た.
 ↓
Amazon.co.jp: 加藤隼戦闘隊 [DVD]
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000BN9AES/mdmk-22/

不思議な映画だった.
一般的には「戦意高揚映画」とされている.
なのにちっとも高揚しない.

こちらは,先の大戦の結末を知っているから?
そればかりではない気がする.

駄作か?といえば,もちろんそんなことはない.
資料的価値を含めれば大傑作と言っていいだろう.
現に昭和19(1944)年の興行成績1位を取っている.
少なくともビジネス的には大成功作.

でも,観終わった後,脳裏に残っているのは南国の青い空と白い雲と,その下で藤田進が演じる加藤建夫部隊長の満面の笑み.
それから一人,また一人と愛する部下を失ってゆく加藤部隊長の底知れない憂い顔.

揚げ句の果てには,ヒーローである部隊長自らまで散華してしまう.
全くハリウッド的ではない.

では,敵たる米英軍側を鬼畜として描いているかといえば,そうでもない.
日本軍に来てもらって現地民が大歓声!みたいな場面もない.

ストーリー自体あるようで,ない.
類いまれな戦技と人徳をもつ部隊長の率いる飛行第64戦隊の日常が,ひたすら淡々と描かれてゆく.
ただその「日常」は,私たちの日々過ごしている「日常」とは違う.
大部分同じなのだが,違う.

それで本来ならば,この映画は日本国民をその「日常」へと勧誘すべき任務を帯びてこの世に出たはずだが,カメラはどこまでも中立を保とうとする.
誘惑するでもなく,もちろん突き離すでもなく.

だからこそ,こうして21世紀の今でも定価が付いて販売されている映像作品になり得たのかもしれない.
単なるプロパガンダ映画では,決してこうはならなかったはず.

ウヨクと言われる人もサヨクと言われる人も,戦争反対派も戦争賛成派も,そして大多数のどちらでもない人も,ぜひ観てほしい.
そこにはつい六十数年前の「日常」が描かれている.
何を感じるかは観た人次第.

不思議な映画である.

【参考】
加藤隼戦闘隊 - Wikipedia


元はといえば半分話: 小惑星探査機「はやぶさ」つながり.
なぜ小惑星「イトカワ」へ「はやぶさ」が飛んでいくのか,その辺の話がわかると面白いかもしれない.




陸軍一式戦闘機「隼」やら,九七式重爆撃機やら,果ては連合軍機に至るまで,実機が惜しげもなく撮影に使用されている.
エルロンの上下,高度計の針の回転,翼端灯の明滅,九七式輸送機内での空挺隊員の状況など,ディテールだけでも興味深い.

目的はどうあれ,アジアにおいてこれらの「機械」を自前で設計・大量生産・運用できたのが日本だけだったのは事実.




あの円谷英二による特撮技術も驚異的.
一部を除いて,言われなければ特撮とはわからない.
ストーリーへ完全に溶け込んでいる.

そうやって考えると「ゴジラ」「ウルトラ・シリーズ」は円谷英二にとって「加藤隼戦闘隊」の続編そのものだったのかもしれない.
少なくとも音楽にはオマージュを感じる.




何はさておき,藤田進の笑顔はかっこいい.
戦前の日本人にもあんな顔立ちの人がいたのだなぁ,としみじみ.




映画はフィクションであるが,加藤建夫部隊長の人物像はかなり史実に基づいているらしい.

あんな上司ならば死んでもいい,のか.
あんな上司でなければ死ねない,のか.

現代の社会人にとっても,この映画から得るものは大きい.
部下にとっても,上司にとっても.



【関連エントリ】
半分話: 前世紀前半のファンタジー
半分話: 小惑星探査機「はやぶさ」特設サイト開設
半分話: 上司の帰りどき

2010年3月25日木曜日

居場所

誰にも居場所が必要.

遠い昔,英語の授業で「"House"は建物としての家."Home"は家庭としての家」というようなことを習った気がする.
いみじくも「家のない浮浪者」のことを「ホームレス」という.
決して「ハウスレス」とは言わない.
彼らに屋根と壁さえ提供すればそれで解決する問題ではなさそうだ.

学校には「保健室」がある.
自分の教室に居場所を見つけられない生徒のうち何人かは,保健室に居場所を求めてやってくる.
そこにはやはり「先生」がいるのにやってくる.
教室にいる先生と,保健室にいる先生とでは,彼らにとって根本的な何かが違うようだ.

社会のルールが大嫌いな人たちがいる.
それが刑法であろうと,マナーであろうと,気に入らない他人が決めたルールはことごとく無視しようとする.
まさに傍若無人-傍らに人無きが若し-.
でも,そんな人たちでさえ,脱退するときには小指を一本置いていってもらうとか,とてつもなく厳しい掟が支配する社会に所属していたりする.
どうもルールを守ること自体が嫌いなのではなさそうだ.
他人に指図されることさえ嫌いなわけでもなさそうだ.
そこに居場所を見いだしたからなのか?

社会的な問題のほぼ全ては居場所の問題だと考えている.

【関連エントリ】
半分話: ハムスターと居場所
半分話: 戦いで得るもの
半分話: 魔法のあいづち
半分話: 精神科DOTS

2010年3月22日月曜日

地獄と天国

永遠の苦しみ,というのは容易に理解できる.
永遠の幸せ,というのは未だに納得できない.

地獄絵図の精緻な具象性に比べ,極楽浄土の想像図の方が圧倒的に間が抜けているのは,古今東西を問わない.
どうやらブログ主だけ発想が貧困なわけではないらしい.

「あの世に行ったら,死んだおばあちゃんに会うんだ」と意気込んでみても,果たして当のおばあちゃんは老人の姿のままでいるのだろうか?
老人の姿のままだったとしたら,それを幸せに感じられない人は多いだろうし,だいいち,あの世は老人だらけになってしまう.
では,本人のいちばん輝いていたころに戻れるとしたら,それはもう自分にとっての「おばあちゃん」じゃないだろう.

ほかにも衣食住についてなど疑問はいくらでもある.
「あの世」を設定している限り,この問題を破綻なく説明できる宗教はないのではなかろうか?

ということで成人してからのブログ主は無宗教である.

ただし,いわゆる「科学」が万能だとも思っていない.
いかに科学が進歩して,次から次へと謎が解き明かされようが,どうせ次から次へと新しい謎が出てくるばかりに違いない.
この世はフラクタル構造をとっているのだ.
永遠に続くマトリョーシカと言ってもよい.

【関連エントリ】
半分話: 宗教の普遍性
半分話: 笑顔
半分話: 健康
半分話: 経済動物が病気になったら